人もマシンもビンテージ!ブログ

こだわりのVMXワークスショップ!ホーリーエクイップの様々な日常をブログで紹介していきます。(いけると思います。)よろしくお付き合いのほど。

2019年09月

「おやじさん」宮田さん!

今回チキチキ17のチラシに画像を拝借した宮田卓英氏について、紹介させていただきたいと思います。

「宗一郎さんと同じ釜の飯を食べた名メカニック」「元ワークスチーム運営責任者」「元エルシノア開発チーム」はもちろんなのですが、言いたいのはそういう事ではなく、氏はチキチキが関東へその舞台を移して以来、雨の日も風の日も前日の設営から当日の撤収までずっと手弁当でお手伝いいただいているように、旧式バイクでモトクロスを楽しむ皆さま方を暖かく見守り、応援いただいているのだと思っています。
せっかくそんな気さくな方が本部に詰めてくれていますので、当時のお話しやメカニズムのこと、研究所での裏バナシ等、交流いただければ主催者としても大変光栄です!
また、チキチキ17当日は宮田氏のものづくりへの取り組み「私のものづくり体験」をファイルにし、希望される方に配布させていただきますね!


・宮田卓英氏とモトクロスとの関わり



1960年本田技研工業株式会社に入社した宮田氏は、1964年頃からホンダ社内の「ブルーヘルメットモータースポーツクラブ」(以後は略称ブルヘル)に所属し、自身の趣味もあり4サイクルエンジンでロードとモトクロスを楽しんでおられました。
しかし、1970年に入ると他社2サイクルエンジンの性能向上が著しく、特にモトクロスレースでは4サイクル車で対抗するのは困難になってきました。
 その頃、研究所内ではブルヘルメンバーを中心とした有志により、ハスクバーナやグリーブスなど、欧州製の2サイクルエンジンを参考に、250ccの2サイクルエンジンの研究が始まっていました。
1971年の全日本モトクロス山口大会でデビューした所謂335Bと呼ばれるプロトタイプ車がその成果でしたが、その2年前の1969年に久留米市高良台で行われたMFJモトクロスグランプリに、隅谷守男氏が改造したハスクバーナで出場した事もありました。
(監督:神谷忠氏、メカニック:宮田卓英氏)
 当時のホンダでは「本田宗一郎さんは、2サイクルが嫌い」と言うのが定説だった為、秘かに進められたと云う事になっていますが、研究所内の一部の役員からはバックアップがあり、本田宗一郎氏は見て見ぬふりだったのが真相のようです。
 そして1971年に研究所の役員が本田宗一郎氏に提言し、正式に2サイクルモトクロス車の開発に関する承認を得ました。上野広一、吉村太一の両氏にスズキから移籍してもらい、ホンダモトクロスのワークス活動が始まりました。
 宮田氏も正式に始まった125ccエンジンの開発チームに参加されましたが、2サイクルエンジンについては全くのゼロからの勉強だったそうです。その後10年ほどの間に、50ccから500ccまで全てのモトクロスエンジンの設計に関わり、その後グループのエンジン設計責任者となられました。
この間は朝霞研究所の二輪エンジン設計室から、ホンダが長年中断していたワークスレース活動を再開する為の “NR”部門 、そして本格的な二輪レース専門会社 HRCに移ってと、モトクロスレースにどっぷり浸った生活をされていました。
全日本モトクロスの転戦から始まり、アメリカのモトクロス場や砂漠(サドルバックパーク、インディアンデューン、ヤッカバレー、デスバレー等)、ヨーロッパでの現地テスト(ベルギー、オランダ等)、更にはモトクロス車の機能性能やライディングテクニックが一段と向上したスーパークロスのフォロー(ロサンゼルス、シアトル、ヒューストン等)まで、開発技術者として充実した活動をされていた宮田氏は「夢のような日々だった」と述懐されています。
1987年6月から1991年1月まではスペインに駐在されていましたが、帰国してからの配属は再びHRCでした。しかし開発現場でなく、オフロード系ワークスチームの運営責任者として、モトクロスの増田耕二監督やトライアルの中野和敏監督と共に、ライダー契約や運営予算などに関わっておられました。宮内隆行氏にオートマチック車を使わせる時や、東福寺保雄氏との契約打ち切りなど難しい局面にも立ち会いながら、HRCでの仕事は1998年まで続けられました。
途中1987年から1991年まではモトクロスから離れられた期間もありますが、その間はモンテッサホンダで生産していたホンダモデルの品質向上と現地部品メーカーの育成の傍ら、モンテッサの伝統的トライアル車の開発を手掛けられました。スーパークロスで培ったクラッチの瞬発力やシフトメカニズムの節度感を反映して、トライアル車の近代化に多大な貢献をされました。
 

トライアル車に関してはモンテッサ車でやり残してきた事と、旧態化していたホンダのトライアル車を統合して復活させる事を提案され、1994年モデルとして新しいトライアル車を市販化しつつ、現在に至っています。また、ホンダモデルとしてHRCとMONTESAのダブルブランドは世界中で唯一の商品でした。
1995年には藤波貴久氏との契約にも直接関与され、その成果は現在の連続チャンピオンの小川友幸氏へと繋がっています。モンテッサとしてもご存知のよう、世界選手権トライアルの圧倒的強豪チームとして今に至っており、それは宮田氏の「誇りある技術者」としての集大成と言えるでしょう。

そんな輝かしい実績とともにホンダを退職された氏の現況ですが、ホンダOBの技術屋集団 マイスタークラブ  の理事、指導者として活躍(2018年度大学訪問指導回数延べ73回)されていたり、また、メーカーや経歴の枠を越えた「60歳からのツーリングクラブ・OSTC」の幹事をされるなど、その行動力、原動力を源とする魅力たっぷりの「ホーリーエクイップのオヤジさん」宮田氏は、チキチキVMXの趣旨にご賛同いただいたうえ、いつも本部テントでニコニコと作業を手伝いながら暖かく進行を見守ってくれています。

宮田氏自己紹介文チキチキ17チラシ-1P

無限381

だいぶ外濠は埋まってきたんやけど、引っ越しがあるのでここまでかな。


IMG_1404
IMG_1402
IMG_1401

RSCフォークキット Φ35mm

1976年に発売された表題キットです。




0491533335_562672253811766_1604195931_n702398_10152094849211037_2015628772_n
















ワークスがカートリッジを採用しだした時期ですが、この市販キット(フォークAssy)はフリーバルブ+スライドメタル+チャンバー室でした。それでも大きな進歩だったと思います。




022053054




DT1エンジン修理9

この二週間というものドップリ没頭させていただいたDT1のエンジンですが、多くの方々の助言と協力により、無事に完成の至りとなりました!

結論的には両トランスミッションシャフト、シフトドラム、シフトフォークシャフトのどれか、若しくは全部の作動不良でした。

こんな素晴らしいマシンが公道に復帰するプロジェクトに関われたことは正しく光栄で、この仕事をしていた事に感謝しかありません!

こんな地方(痴呆?)の町工場にもかかわらず、真摯に忌憚のない見解を示してくれたHM佐々木くんにはホント光明へ導いてくれた思いです。

何度も無理を聞いてくれた加藤社長はもちろん、投げることなく最後までお付き合いいただいたオーナーのYさま、本当にありがとうございました!


IMG_1333
IMG_1340
IMG_1342
IMG_1349
IMG_1350
IMG_1355

DT1 エンジン修理8

IMG_1286
IMG_1288



何度も開けては閉め、、、



IMG_1296
IMG_1297
IMG_1302
IMG_1303



セッティングを煮詰めましたが、どうもシフトのタッチと確度に納得出来ません。このケースと各シャフト、特にシフトドラムは使わない事に決めました!顔で笑って心で泣いて、笑 ドラスティックに巻き直します!



IMG_1315




HOLLYプロフィール

Holly

最新コメント
記事検索
月別アーカイブ
  • ライブドアブログ